夕刻の海は必見

映画のタイトルでもある「アマルフィ(Amalfi)」という地名は、この土地の開祖がメンフィ(Menfi)という場所を経由して辿り着いたことからアメンフィ(Amenfi)と呼ばれ、それが後になって現在のアマルフィに変わったという説があります。

西暦337年にローマ皇帝コンスタンティヌス大帝が崩御した後、ローマ貴族たちが船でコンスタンティノープルを目指していたが、嵐で漂流してこの土地に流されてきました。

船旅の継続が困難であると判断した彼らは、海からの攻撃に対して防御に適した丘の上を拠点としてを農耕を主とした生活を始めました。徐々に集落の規模は大きくなり、今日のアマルフィにも人々が移り住むようになったのです。そして時は流れて839年、アマルフィはベネヴェントやサレルノを拠点としていたランゴバルド族との紛争を切り抜けて、アマルフィ共和国としての独立を勝ち取りました。

以降、アマルフィ共和国は造船や航海技術と商才の強みを武器として、地中海を中心に、東ローマから来たアフリカまでの諸国との公益で大きな利益をあげ、発展を遂げていったのです。諸国との交易には独自の金貨「ターリ(Tari)」を使用し、地中海沿岸の諸都市には、治外法権の特権を有した植民地ともいえるアマルフィ居住区を次々と築いていきました。

共和国の統治は、毎年有力貴族の中から選ばれる総督「ドージェ(Doge)」を筆頭に行われました。最盛期には東のチェターラから西はpジターノ、ガッリ諸島、内陸部はラッターリ山脈からナポリに近いグラニャーノまでを統治下に治めるまでになりました。

しかし、共和国の反映でもたらされた莫大な富は外敵からの相次ぐ侵攻の対象にもなり、1039年にサレルノによる攻撃で一時的に制圧されてから以降は、独立を保ってきた共和国にも陰りが見え始め、1075年には共和国としての歴史に幕を下ろし、ノルマン人ロベルトの統治下に置かれることになったのです。

統治後も、地中海交易の権益は保たれていましたが、1131年にルジェーロ2世がシチリア王国に従属した後は、ノルマン朝の政策によって東ローマとの通称交易が禁じられ、その特権や商館等おをヴェネツィアに明け渡すことになったため、アマルフィの交易範囲は南イタリア沿岸部のみに縮小されました。さらに1135年と1137年いピサの侵攻を受け、アマルフィは大きな打撃を受けました。

しかし、12世紀から13世紀に、市街と建築の再構築、航海技術や貿易の整備を行い、再び賑わいを取り戻すようになります。この頃、フラヴィオ・ジョイアはヨーロッパ初となる羅針盤を使用した航海法、また近代でも評価の高い最古の海事法典アマルフィ海法などが整備されました。

その後は19世紀に至るまで、ナポリ王国と南イタリアを取り巻く政権争いの影響を受けることになります。アンジュー、アラゴン、フランス、スペインと政権が変わるなか、14世紀から16世紀までは封建制の時代が続き、ペストの流行や、自然災害などにより都市機能は損なわれ、18世紀には貴族達もナポリに移住したため、アマルフィは廃墟同然にまで荒廃しました。

19世紀にはいるとナポレオンの命によりナポリからアマルフィへの陸路が整備され、水車を利用した製紙工業などの産業が復興しました。20世紀には世界の芸術家や文化人、映画監督や俳優たちが集まる南イタリア有数のリゾート地として注目され、1997年には沿岸がユネスコ世界遺産に認定され、現在に至っています。

Amalfi Coast〜「世界一美しい海岸」アマルフィの魅力